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見てくれた人に何か考えてもらえたら。
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人の発する言葉の中には嘘が存在する。

行けたら行く。

こういう言葉を誰しもが一回は使ったことがあるのではないか。

自分も勿論使ったことがある。

一回どころではない、何回も使ったことがある。

それの真意は人それぞれかもしれないけれど。

ほとんどの人の行けたら行くは、端から行く気は毛頭ない時に出る言葉だ。

はっきりと断るのは悪いが、行きたくもないって時にこの言葉は多く使われる。

後から戻るって言葉がある。

人が言う後から戻るは意外と信用できない。

信用できるのは、走れメロスに出てくるメロスぐらいだ。

戻る気がない時、後から戻るから今は行かせてくれと。

あのセリヌンティウスですら、一度メロスが帰ってこないのではと疑ったぐらいだ。

人は人の言葉を信用してはいけない。

人は人の言葉を疑わなければならない。

戻ると言われたら、戻ってこないと思うべきだ。

人は信用するよりは疑った方がいい。

それぐらい疑い深く生きて行けば、道端に落ちている石に躓くことはない。

しかし、その生き方はめちゃくちゃ生きづらい。

おすすめは絶対に出来ない。

でも、人は信用すべきかどうか。

それに関しては、もう少し良く考えてから動い方がいい。

あとあと相談を持ってきても知らない。

起こってからの相談ほどどうしようもないものはない。

時間は戻らない。

戻れるのは、その時の記憶だけだ。


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世の中にはどうしても流れというモノが存在する。

人は流れに乗って過ごす。

その方が楽だからだ。

でも、時折人はその流れに逆らおうとする。

何でって、流れに逆らった方が格好いいからだろう。

自分には他の人が出来ない何かがあると信じて動く。

他の人が右って言っているのに、なら自分は左に行くと。

みんなと違ったことがやってみたい。

そういう気持ちは少なからず持っている。

それでも、人の流れってのは大きくて流されてしまう。

流されているのに、無理やり違うことをする必要はない。

身を委ねるのが賢明な判断だ。

もう両手を広げて、その波の上で浮かぶだけでいいんだ。

それは簡単で、自然と向こう岸まで運んでくれる。

流れるプールで逆走しようとすると体に負担がかかるだろう。

無理にやる必要はない。

しかし、ずっと委ねているだけだとダメだ。

同じところをひたすらグルグル回るだけ。

結果同じところに戻ってきてしまう。

じゃあいつ動けばいいのか。

それはその流れが一瞬止まった時だ。

流れが止まる休憩時間に別の流れを作ればいい。

人は流れが右か左かなんて気にしていない。

どっちだっていいんだ。

だってただ流れているだけなんだから。

だから、流れを変えたい人はそこで逆の流れを作ればいい。

そうしたら流れに乗って他の人もついてくる。

その流れが正しければ、ずっとその流れのまま回っていれるだろう。

人の流れなんてそれの繰り返しだ。

右回りか左回りか。

ただひたすら回るだけだ。

流れを変えるのは一瞬だ。

それまでは身を委ねるしかない。

無理に流れに逆らおうとすれば、体が先に悲鳴を上げる。

委ねてぼーっと流されてみるのもいいのかもしれない。
自分の立場は見誤らないように。

立場なんて関係ない。

どんな立場であれ、どんな立場の人とも変わらない。

それは完全に間違いだ。

人それぞれ立場ってのはある。

それによって制限されることも、幅広く出来ることもある。

それがあるのは現実で事実だ。

立場は違えど、意見を述べることはどんな立場の人にだって出来る。

立場が違うと出来ないこと、それは批判だ。

批判ってのは、相手と同じ立場に立っていないとダメだ。

平等なんかこの世の中にほとんどない。

どんなに差別をなくそうが、人は心の内側では平等を嫌う。

自分が少し上に居たい。

そういう人が溢れ返っている世の中では。

立場が違う状態で、批判をしたことでそれは妬みか僻みか。

そういう風にしか受け取られない。

ただし、意見は違う。

立場が違うからこそ出来る考え方。

そっちの立場ではそうかもしれないけど、こっちの立場からすればこうだよって。

それもまた一つの考え方として。

立場の違いはそういう意見の交換には必要不可欠なことだ。

同じ立場の人ばかりでは、偏った考え方になりがちだ。

立場は上手く使えば、全く考えつかない発見ばかりだ。

それを間違った思想で批判するだけでは、何も変わらない。

もし、どうしても伝えたいことがあるのならば、同じ土俵に立って意見しよう。
新しい発見を見つける。

人は同じことの繰り返しをしていると、物事に飽きてしまう。

人は飽きることを嫌う。

新鮮な何かを見つけたがる。

新しい何かを発見して、自分の心の高鳴りがないと活力がなくなる。

刺激のない、何も変わり映えのしない毎日を送っていては退屈だ。

その退屈を打破するためには、どうにかして新しい興味を見つけないと。

毎日が忙しいと、そういうモノを見つける機会も少ない。

そういう時は、本当に仕事などの帰り道に周りに目を向けよう。

そういうのは、身近に転がっている。

横を向いてみれば知らなかったモノがあるかもしれない。

人は歩きながら、意外と周りに興味を持って歩かない。

周りに興味を持つことが、新しい何かを見つける為には簡単で確実な方法だ。

飽きずに生きる為には、周りに目を向ける。

それだけで、この世の中には数えきれないほどの何かが転がっている。

探そうとすれば何でも見つかる。

探そうとしてみよう。

話はそこからだ。
ここだって思った時、目の前に引かれた線を飛び越えて行けるか。

人は行動を起こす時、無意識に目の前に線を引く。

それを超えれた人だけが行動を起こせる。

人はその一瞬一瞬の内に、心の中で葛藤を演じる。

そこで一歩を踏み出すのを、人は勇気と呼ぶ。

勇気は言葉で言うのは簡単だ。

勇気を出せ。

君に勇気がなかったからだ。

その引いてある線はただの線じゃない。

その一瞬、その場、その時、選択のない時なんてない。

人は思い込みが激しい生き物だ。

常に自分だけが不幸だと嘆く。

行き詰まっているのは自分だけだと勝手に勘違いしている。

何でそういうことが起きるか。

人は常に何かに怯えながら生きているからだ。

何をそんなに怯える必要があるのか。

人が恐れているのは、周りの人だ。

人は人が一番怖い。

だから、各々線引きをする。

そして、周りを警戒しつつ、その時が来るのを見極めている。

線は人との境界線と飛び出す勇気を試すためにある。

誰も線に沿って歩けというわけではない。

飛び越すか、手前でチャンスを伺うか。

そのどちらかだ。

目の前にあるのはレールなんかじゃない。

ただの線だ。

それ以外でも、それ以上でもない。

よく見てみれば分かる。

あっ、何だこれかぐらいにしか思わないだろう。

その線を飛び越えるのは一歩でいい。

しかも、大股でなくてもいいんだ。

小さな一歩でも超えれる線だ。

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