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見てくれた人に何か考えてもらえたら。
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後悔とは、自分のしてしまったことを、後になって失敗であったと悔やむこと。

 

人は後悔する。

 

人は後悔することが駄目なことだと考える。

 

だから、人は毎日後悔しないように生きようとする。

 

それでも、人は毎日何かしらの後悔を重ねる。

 

後悔をしない人なんていない。

 

生まれてきたことを、学校生活でのことを、仕事をしている時も、人生の最後を迎える時も。

 

人は後悔無しには生きられない。

 

何故後悔するのか、それは僕たちが人であるから。

 

私は後悔なんてしたことがない。いつも全力で毎日を取り組んできた。

 

だから、後悔なんてあるわけがない。

 

そんな人は過去を遡って探してもいない。

 

勿論、未来永劫そんな人は現れない。

 

僕たちは過去もこれからの未来においても人であるから。

 

ただ、それだけが理由だ。

 

「後悔をしないように。」、「悔いの残らないように。」。

 

こんな言葉では誰も救えない。

 

その言葉を言われても、人は必ず後悔する。

 

言われた時は、「確かにそうだ。後悔しないよう頑張ろう。」

       「悔いの残らないように精一杯やろう。」と、思う。

 

でも、結局は後悔をする。

 

「あの時あれをやっておけば、、、。」

 

「後悔するな。」という言葉は、人には不可能な注文だ。

 

学校でいい成績を残せば、甲子園で優勝すれば、

                 大手企業に就職すれば。好きな人と結婚すれば。

 

どんな成功をしても、後悔は後からやってくる。

 

後悔しないようにするには。

 

そんな神のお告げみたいなモノは存在しない。

 

後悔してしまうんだ。

 

でも、人は後悔したくない。

 

だから、少しでも後悔の数を減らすために、毎日を充実させようとする。

 

いくら充実させても後悔するというのに。

 

成功の積み重ねが人生。充実した毎日こそが人生。後悔しないように過ごすのが人生。

 

いや違う。

 

後悔を積み重ねたモノだけが、その人の人生として残っていく。

 

後悔を恐れる必要はない。

 

それが自分の人生となるのだから。

 

人生の最大の味方は、後悔しかいない。

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「そもそも、大人が格好良ければ、子どもはぐれねえんだよ。」

 

これまた、僕の好きな小説家の本に出てくる言葉。

 

僕が人生において大切だなって思うことは、この小説家さんと、ある漫画家さんの作品に多く存在する。

 

今日もまたそれっぽいことを語る。

 

最初の言葉を見た大人はこう言うだろう。

 

「私たち大人は毎日真面目に働き、子どもたちの為に動いているのだ。その姿はとても格好いいだろう。子どもがぐれるのは私たち大人の責任ではない。子ども同士の関係がぐれるきっかけだ」と。

 

最初の言葉を見た子どもはこう言うだろう。

 

「自分たちがぐれる理由は、大人が格好良くないから。あんな大人たちみたいになるなら、大人が示す道なんて外れて生きるよ。」と。

 

大人とは、十分に成長した人。考え方や態度が十分に成熟している人。

 

大人はこれからの先を作る為に働いている。これからとは、勿論自分たちの至福を肥やす為ではない。

 

これからとは、当然子どもたちのことである。

 

宇宙の為、世界の為、自国の為に私は働いているという人もいるかもしれない。

 

そんなものは建前でしかない。

 

結局は、今から生まれてくる子ども、はたまた、今を生きる子どもたち、つまりは未来があるモノたちの為である。

 

酷な言い方をすれば、「大人に未来はなく、未来があるのは子どもだ。」ということである。

 

そんな子どもの為に働いている大人が格好悪くてどうする。

 

「君たち子どもは、今の内にしっかりと我々大人の背中を見て、未来に向かって歩いていけ」と言えないといけない。

 

大人の責務はこれ一つである。

 

本当に大人は格好悪いのか。

 

逆に、格好悪くない訳がない。

 

「子どもにいじめは駄目だ」と、言い続けてるのに何故いじめがなくならいのか。

 

誰だって分かる。大人もいじめをしているからだ。

 

大人がしているということは、背中を見て歩く子どももしているに決まっている。

 

だから、この世の中からはいじめがなくなることは皆無。

 

「同じクラスの仲間なんだから、仲良くしないと駄目だ」と、言い続けているのに何故喧嘩がなくならないのか。

 

誰だって分かる。大人も組織の中で喧嘩をしているからだ。

 

大人が喧嘩しているのに、子どもに喧嘩は駄目だと言っても説得力がない。

 

大人がやっていることを子どもは見ている。

 

周りの大人に気づかれないことも、子どもは気付く。

 

子どもは、大人よりよっぽど空気の変化に敏感だ。

 

何故子どもがぐれるか。ここまで来れば大方、誰にでも次の言葉が予想できる。

 

「大人がぐれているからだ。」

 

「そもそも、大人が格好良ければ、子どもはぐれねえんだよ。」

 

つまり、そういうことだ。

また、僕の好きな小説家の本の中の一部から。

 

過去のイタリアの独裁者ムッソリーニの恋人はクラレッタ。

 

クラレッタとムッソリーニは一緒に銃殺され、二人の遺体は広場に晒された。

 

そこの群衆が、その遺体に唾を吐いたり、叩いたり、、その後に逆さに吊るされた。

 

そしたら、クラレッタのスカートがめくれ、群衆が喜んだ。

 

その時、椅子に登ってスカートを戻し、自分のベルトで縛って、捲れないようにしてあげた人がいたと。

 

群衆ということは多くの人がいる。

 

しかし、一人が喜ぶと周りに伝染して、群衆は喜ぶという流れ一つになる。

 

その人は流れに逆らった。

 

群衆という多くの人が肯定しているモノを一人だけそれを否定した。

 

この状況下において、スカートを直せるかというと、多くの人はその考えにいたることもないだろう。

 

人と違うことをやるというと、とても格好よく、そういった人になりたいと思う人は多くいると思う。

 

でも、人と違うことっていうのはそう簡単に出来るモノではない。

 

何故か、それは人は人と違うことをするのを恐れているから。

 

人と違うこと特に、多くの人が肯定しているモノには。

 

否定した自分はその群衆から外され、一人になるかもしれない。

 

人はそんな疎外感、孤独感が嫌いな生き物だから。

 

だから、群衆に紛れ、自分の思考を停止し、流れに身を任せる。

 

群衆の意見が正しいと信じて疑わない。

 

自分の中では考えた気になっているが、本当は考えていないのではないか。

 

人が群れを作るのは動物として当たり前、むしろ、人ほど群れがないと生きていけない生き物もなかなかいない。

 

その群れの中で、自分の考えを捨ててはいけない。

 

常に、考える必要がある。カリスマ性のある先導者に関しては、また別の記事で。

 

まずは、小さなとこから。いきなり行動するのは準備不足。

 

日頃から、群れ、群衆の中で、考えることを止めずに。

 

人が大勢いたって間違えた選択をすることはある。

 

多数決で全てが決まるわけではない。

 

大勢の波に流されたとき、自分は流されずに立っていられるか。

 

抗うのは難しい。しかし、案外流されずに立っていると、他の誰かも一緒に立っているかもしれない。

 

自分が動いてクラレッタのスカートを直せるか。

 

一番分かっているのは自分しかいない。

 

群衆の流れが間違っているなら、その流れを変えてやればいい。

 

向きを逆にすれば、意外と簡単に間違いを正せる。

 

自分の目の前にある、クラレッタのスカートを直すかどうかは結局自分次第。

 

僕の好きな小説家の本に”考えろ”という言葉が多く登場する物語がある。

 

”考えろ”。

 

これは小さい時から親や友達、学校の先生、会社の上司など多くの人から言われることがあると思う。

 

自分で”考えろ”。

 

言うのはとても簡単な言葉で、特に、社会に出ている人は上司とかに理不尽に自分で”考えろ”と言われることもあると思う。

 

本当にその言葉の意味を考えたことがあるのか。

 

”考えろ”。これは考えるの命令形。

 

考えるとは知識や経験などに基づいて、道筋を立てて頭を働かせる、、判断するや結論を導き出すなどだと思う。

 

「自分の人生の責任は全部自分」。

 

”考えろ”とは自分に対する考えるの命令形ではないか。

 

その本の中での”考えろ”も登場人物が自分に言い聞かせるようにつぶやく。

 

”考えろ”とはもともとそういう使い方が正しいのではないか。

 

自分で考えてから行動する。これが普通だが一番世の中で難しいこと。

 

他人の意見を聞くことはとても重要である。自分が思いつかないようなことも、他の人は思いつくかもしれない。

 

だからといって全てを受け入れるべきではない。

 

他人の意見を聞いた上で自分で自分の中で”考えろ”ということ。

 

最初に書いた周りの人から言われる”考えろ”というのは、もしかすると言ってはいけないことなのかもしれない。

 

自分で考えた上でその行動を起こしているから。

 

考えて行動したのに、”考えろ”と言われてもどうすることもできない。

 

人が行動するときは何かしら考えている。

 

”考えろ”という人も考えた上で言っている。

 

他人に”考えろ”と言われていい気持ちになる人はいない。

 

その言葉は自分が自分の為に使う言葉だから。

 

自分の人生は自分で”考えろ”。自分に言い聞かせて。

”夢”という言葉。

 

睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。

 

将来実現させたいと思っている事柄。

 

他にも2つ程の意味を持つこの”夢”という言葉。

 

人が一番考えるのは、2つ目の将来に関する”夢”という意味でのもの。

 

僕の好きなアーティストの方の言葉に、

 

「夢は見るものじゃない。夢は叶えるもの。

                 夢を叶えること、それは強い意志を貫くこと」

 

というこれから旅立っていく若者に伝える言葉がある。

 

この言葉の意味、それは読むとある程度同じ解釈をすると思う。

 

”夢”という言葉が人に与える影響は大きい。

 

誰もが”夢”という言葉に希望を持ち、そこに向かって歩む。

 

しかし、年齢を重ねるごとに、現実と向き合うと自分が持つ”夢”の壁の高さにぶつかる。

 

それを超えるかどうかが、強い意志を貫くということ。

 

周りの人に何を言われようが、社会がそれを否定する流れでも貫くという意志が。

 

”夢”を諦め、別の”夢”に向かうのもまた一つの手段。それを悪く言う人はない。

 

しかし、一度しかない自分の人生、一つの”夢”を叶えるその意味の大きさは計り知れない。

 

自分の”夢”を持っている人は強い。それに向かう人は強い意志を貫いているから。

 

”夢”がない人は駄目ってことではない。ない人はいくらでもこの先”夢”を見出せる。

 

”夢”がもたらす力。何か一つでもいい。自分に合ったモノを見つけてほしい。

 

     ”言葉”で世界は変えられる。   ”夢”が人生を変えてくれる

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