また、僕の好きな小説家の本の中の一部から。
過去のイタリアの独裁者ムッソリーニの恋人はクラレッタ。
クラレッタとムッソリーニは一緒に銃殺され、二人の遺体は広場に晒された。
そこの群衆が、その遺体に唾を吐いたり、叩いたり、、その後に逆さに吊るされた。
そしたら、クラレッタのスカートがめくれ、群衆が喜んだ。
その時、椅子に登ってスカートを戻し、自分のベルトで縛って、捲れないようにしてあげた人がいたと。
群衆ということは多くの人がいる。
しかし、一人が喜ぶと周りに伝染して、群衆は喜ぶという流れ一つになる。
その人は流れに逆らった。
群衆という多くの人が肯定しているモノを一人だけそれを否定した。
この状況下において、スカートを直せるかというと、多くの人はその考えにいたることもないだろう。
人と違うことをやるというと、とても格好よく、そういった人になりたいと思う人は多くいると思う。
でも、人と違うことっていうのはそう簡単に出来るモノではない。
何故か、それは人は人と違うことをするのを恐れているから。
人と違うこと特に、多くの人が肯定しているモノには。
否定した自分はその群衆から外され、一人になるかもしれない。
人はそんな疎外感、孤独感が嫌いな生き物だから。
だから、群衆に紛れ、自分の思考を停止し、流れに身を任せる。
群衆の意見が正しいと信じて疑わない。
自分の中では考えた気になっているが、本当は考えていないのではないか。
人が群れを作るのは動物として当たり前、むしろ、人ほど群れがないと生きていけない生き物もなかなかいない。
その群れの中で、自分の考えを捨ててはいけない。
常に、考える必要がある。カリスマ性のある先導者に関しては、また別の記事で。
まずは、小さなとこから。いきなり行動するのは準備不足。
日頃から、群れ、群衆の中で、考えることを止めずに。
人が大勢いたって間違えた選択をすることはある。
多数決で全てが決まるわけではない。
大勢の波に流されたとき、自分は流されずに立っていられるか。
抗うのは難しい。しかし、案外流されずに立っていると、他の誰かも一緒に立っているかもしれない。
自分が動いてクラレッタのスカートを直せるか。
一番分かっているのは自分しかいない。
群衆の流れが間違っているなら、その流れを変えてやればいい。
向きを逆にすれば、意外と簡単に間違いを正せる。
自分の目の前にある、クラレッタのスカートを直すかどうかは結局自分次第。