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見てくれた人に何か考えてもらえたら。
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伊坂幸太郎さんの死神の精度にこんな言葉が出てくる。

 

『たとえばさ、太陽が空にあるのは当たり前のことで、特別なものではないよね。

 

 でも、太陽は大事でしょ。死ぬことも同じじゃないかって思うんだよね。

 

 特別じゃないけど、まわりの人にとっては、悲しいし、大事なことなんだ。』

 

もう一つ。

 

伊坂幸太郎さんの死神の浮力にこんな言葉が出てくる。

 

『絶対と言い切れることがあるとすれば、人は死ぬ。ということだけだ。

 

                         人は必ず死ぬ。』

 

生まれたからには、人はいずれ死ぬ。

 

このシンプルは流れ。

 

人が一番重く捉えているモノ。

 

死を恐れていない人はまずいない。

 

それは、何も間違っていない。

 

でも、死ぬことは何も特別なことではない。

 

しょうがないモノである。

 

しかし、なかなかそんな割り切れる人はいない。

 

人に感情があるから。

 

繋がりが深ければ深いほど、その人の死を想う。

 

今まで居た人がいなくなるのは悲しい。

 

泣きたくなる気持ちが出てくる。

 

でも、人の死は特別なことではない。

 

テレビに映る関わりのない人の死は、「あ、亡くなったんだ」ぐらい。

 

それ程までに人の死は特別なモノではない。

 

身近な人や興味のある人の時だけ、人は悲しむ。

 

その特別じゃないことに悲しみを覚える。

 

そして居たことを忘れない為の行事を行う。

 

居たという事実を忘れない為にその後も思い出す。

 

その人とのずっと続く関わりの為に。

 

それは人にとって大事なこと。

 

死んでもその人とは関わりたいって気持ちは大事。

 

関わった思い出も大事なモノになっていく。

 

大事なモノなんて世の中にいくつあるか。

 

一つ言えることは、人との関わりは生きていても、死んでいても大事なことってこと。

 

人の死に関して、今一度自分の周りを見てみる。

 

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何か探し物はありますか?

 

見つからないモノ。

 

よく人は、自分探しということをする。

 

自分探しとはいったい何なのか。

 

自分が何者であるか、いったい何をすればいいのか分からない。

 

そんな人が自分探しをする。

 

自分を探す時、人は何をするか。

 

一度、自由なことをする。

 

何にも縛られないように、異国をまわったり、自然に触れてみたり、一日中家に居たり、本を読んだり、、、。

 

自分に何が出来るのか。

 

自分は何が出来るのか。

 

自分は何をするべきか。

 

自分の価値を探し歩く。

 

悔しい事に、自分の価値を決めるのは他人である。

 

「自分はこれだけ価値のある人です」と、表現しても、他の人がその価値を理解しなければ、結果、自分の価値はなくなる。

 

だから、余計に人は自分を見失う。

 

自分が見つからない状態に陥る。

 

精神医学の権威の一人として知られる人物の中に、トーマス・サーズさんという方がいる。

 

トーマス・サーズさんの言葉にこんなのがある。

 

「よく、あの人はまだ自分探しを終えていないなどという人がいるが、

 

 そもそも、自分とは探すものではない。 自ら作り出すものである。」

 

つまり、自分とは自分の創造だということである。

 

自分探しなんてモノは最初からない。

 

自分を探す必要はない。

 

自分は創造によって成り立つ。

 

だから、自分が見つからない人は、自分を創造すればいい。

 

作られてないモノを探すなんて、どんな名探偵にも不可能なこと。

 

何事にも創造する想像が出来ないといけない。

 

まずは創造してみよう。

 

話はそれから。きっと見つからなかった探し物は出てくる。

 

自分で作って、自分の目の前にもってくればいいのだから。

『人間にとっては、年齢とは、その人間の品質を表す数値ではない。

つまり、年嵩が増しているからと言って、優秀であるとは限らず、それはただの、肉体の、主に、血管や内臓の使用年数に過ぎない。』

 


とある本の中に書いてある一文。

 


年齢とは、ヒトでは、出生児より任意の時期までの生存期間を、暦年により数えた年数をいう。

 


年を取っているからと言って、品がいいなんて事はない。

 


年寄りは若者を嫌う。

 


若者は年寄りを嫌う。

 


上の人は下の人に文句をつける。

 


下の人は上の人に文句をつける。

 


上は理不尽を下に要求する。

 


下は我が儘を上に押し出す。

 


よく若者じゃない人は、若者を非難する。

 


最近の若者はと。

 


よく若者は、自分より上の人を非難する。

 


自分より先に生まれたからって偉そうにと。

 


年上を敬う気持ちってのは、大事なモノ。

 


その敬うべき対象の年上限定で。

 


何でもかんでも、年上だから。

 


そんな理由では、年下も納得しない。

 


昔はこうだった。

 


自分たちが若い時は。

 


時代は進んでいっているのにだ。

 


それに言いくるめられてしまうと、

 


歴史が繰り返される。

 


そういったモノ程、悪い歴史の繰り返しが多い。

 


前にも記事に書いた。

 


大人が格好よければ、子どもはぐれない。

 


まだ見てない人は、少し記事を遡ってもらえると有難い。

 


つまりは、そういうこと。

 


悪い歴史は繰り返さない。

 


良い歴史は繰り返す。

 


誰だってそうしたい。

 


なら、その時の感情はこれからの歴史において、どっちなのか。

 


一度考えてみよう。

 


よく電車で若者は大声で喋っている。

 


これはいつの時代も言われて来た。

 


本当にそうだろうか。

 


今の時代、1番電車の中で、周りを気にせず喋っているのは、若者より年をとった人たち。

 


携帯の音が電車内で鳴るのも、電話で喋るのも、隣の人と喋るのも。

 


勿論例外の若者はいる。

 


しかし、比率は若者の方が圧倒的に少ない。

 


時代が変わったからだ。

 


買い物なんかでも、大声で的はずれなクレームをつけて来たり、態度が悪いのも若者より上の人たちばかり。

 


お年寄りが店員さんに喋りかけて、仕事の邪魔をしていたり。

 


そんな光景を多く見て来た。

 


年数を体に積み重ねて来ても、何も優秀なモノなんてない。

 


お互いがお互いに毛嫌いしてる部分もある。

 


どちらもこれから経験したり、経験して来たことなのに。

 


悪い歴史は終わらせて。

 


良い歴史を始めようか。

「これからのヒーローの第一条件は、失言しないことだ。」

 

これは、僕の好きな本の中に書いてある一文。

 

この文を読めばある程度、何を言わんとしているのか分かるかなと思う。

 

人が敏感に反応するのは、人が失言した時。

 

失言とは、言うべきではないことを、うっかり言ってしまうこと。

 

よくメディアで取り上げられるのは、人が失言をした時。

 

特に、政治家さんの失言は、敏感に取り上げられる。

 

政治家さんの失言が取り上げられると、民衆は「またか。」と溜め息をつく。

 

何故、政治家さんは失言が多いのか。

 

その言葉が自分自身失言だと思ってないから。

 

自分が喋っている時は、あまり失言をした感覚はないだろう。

 

しかし、後から周りの人たちによって、その喋った言葉が失言だと言われる。

 

そしたら、あの人は失言したと広がる。

 

多くの政治家さんがその後、撤回しろと言われる。

 

その為に、人が集められ、撤回しているところを世間に晒される。

 

たかが、人の撤回だけに集められた人も、それを見せられた人も時間を損したなと。

 

失言は、他の人の時間も奪う。

 

それだけでなく、失言によって、人が傷つくかもしれない。

 

差別的な言葉によって。

 

失言と捉えられれば、それからの道はそれを撤回するしかない。

 

何てめんどくさい世の中なのか。

 

だから、これからの時代、表に立つヒーローは失言をしないこと。

 

これが第一条件になる。

 

政治家さんがヒーローって訳ではないが、一番分かりやすい例を挙げた。

 

政治家さんだけでなく、僕たちみたいな人も失言によって、周りの人に迷惑をかけてしまうことがある。

 

人はみな、誰かのヒーローなのだから、失言は抑えよう。

 

何のヒーローか分からない自分がいるなら、周りの人に目を向けてみよう。

 

誰かに必要とされていれば、その人はヒーローになれる。

 

それが仕事でも、家庭でも、家族からでも、動物からでも、何であっても。

 

失言とは別に、伏線、フラグと呼ばれるものなら人は好む。

 

 

 

ヒーローに関しては、また別の日にでも書いてみよう。

 

後、人の謝罪についても書いてみよう。

常識とは、一般に学問的知識とは異なり、普通人が社会生活を営む為にもち、

またもつべき意見、行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く、

時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり、多分に相対的なものである。

本来は、「共通(一般)感覚」の意。

 

常識がない人って言うと、とても悪く見られる。

 

常識にとらわれない人って言うと、とても良く見られる。

 

常識にとらわれるなって言葉は、とても良く人の心に響く。

 

何故か。人が自由を求めているから。

 

常識を破ることが、自由を手にする為に必要だいう人もいる。

 

そんなことはない。常識を破る意味はない。

 

常識は時代ごとに変わっていく。

 

昨日までの常識が、今日非常識になって行くかもしれない。

 

昨日までの非常識が、今日常識になって行くかもしれない。

 

常識は、今まで人が歩んで積み重ねてきたモノだから。

 

最初の常識は何だったのだろうか。

 

人が共通してきた感覚が間違って出来た常識もあるのかもしれない。

 

だからって、破る必要なく、違う常識を作って上書きすればいい。

 

常識的に考えて、何々だと思う。

 

人は、本当に色々な感性を持っている。

 

その人たち全員が納得する常識ってのは多くない。

 

だから、常識を破りたくなるのかもしれない。

 

常識というのは、所詮、共通の感覚でしかないのだから。

 

全員が全員、同じ感覚で居ては何も進まない。

 

少し前の時代に生きていた人が、現在の状況を把握はできない。

 

その人たちからしたら、僕たちは常識の外の人になっているのかもしれない。

 

常識が全てだっていう人は割といない。

 

成長していくためには常識だけでは駄目だから。

 

第20代アメリカ大統領のジェームズ・ガーフィールドが言った。

 

「誰かがやらなければ、世の中は変わらない。」

 

誰かがやるのも待つのも一つかもしれない。

 

でも、自分の意志があるのだから、自分がやって世の中の常識を作ってもいいのかもしれない。

 

勿論、一人が常識と思っていても、それは常識ではない。

 

その常識が他の人に伝わり、共通の感覚として共有しよう。

 

それが友達や仲間と呼べるモノになっていくのかな。

 

常識を破る。常識にとらわれない。

 

そんな小さなことは置いといて、もっと広い目線で世の中の常識を作る。

 

そんなことが出来たらいいな。

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